|
フランツ・ヨシアス(Franz Josias von Sachsen-Coburg-Saalfeld, 1697年9月25日 ザールフェルト - 1764年9月16日 バート・ローダッハ)は、ドイツ・テューリンゲン地方の諸侯の1人。ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公爵(在位1729年 - 1764年)。 ザクセン=ザールフェルト公ヨハン・エルンストと、その2番目の妻でヴァルデック=ヴィルドゥンゲン伯ヨシアスの娘であるシャルロッテ・ヨハンナ(1644年 - 1699年)の間の息子として生まれた。1718年に神聖ローマ皇帝の軍隊に仕官し、1719年には四カ国同盟戦争に従軍し、フランカヴィッラの戦いやパレルモ、メッシーナの包囲に参加している。しかし1720年には父親の命令によりコーブルクの宮廷に戻された。 1729年の父の死後、その遺言により、異母兄のクリスティアン・エルンストと一緒に公爵領を相続した。クリスティアン・エルンストが家族の反対を無視して貴賤結婚をしたため、1724年には父ヨハン・エルンストが息子2人の共同統治を決めていたのだった。クリスティアン・エルンストはザールフェルトに、フランツ・ヨシアスはコーブルクにそれぞれ宮廷を置いた。 エルネスティン家内の相続争いに関して、フランツ・ヨシアスはザクセン=マイニンゲン公爵家のコーブルクに対する相続請求を1735年に最終的に斥け、ザクセン=コーブルク公爵領に対する支配権を正当なものとした。これ以後、ザクセン=ザールフェルト公爵家は「ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公爵家」と名乗る様になった。1745年に異母兄クリスティアン・エルンストが死ぬと、フランツ・ヨシアスはコーブルクとザールフェルトの両宮廷の主人となった。1733年にはコーブルクとザールフェルトの2つの公爵領に長子相続制を導入し、これは1747年に神聖ローマ皇帝の認可するところとなった。 1750年から1755年まで、ザクセン=ヴァイマル公爵家の未成年の当主エルンスト・アウグスト2世の摂政を務めた。公爵は堂々たる体躯をした為政者だったが、フェーダーバール(バドミントンに似た球戯)の最中の事故で左目の視力を失っている。 1764年にローダッハの城で死去し、コーブルクのザンクト・モーリッツ教会に葬られた。 == 子女 == 1723年にシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯ルートヴィヒ・フリードリヒ1世の娘で従姪にあたるアンナ・ゾフィア(1700年 - 1780年)と結婚し、間に6人の子供をもうけた。 *エルンスト・フリードリヒ(1724年 - 1800年) - ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公 *ヨハン・ヴィルヘルム(1726年 - 1745年) *クリスティアン・フランツ(1730年 - 1797年) *シャルロッテ・ゾフィー(1731年 - 1810年) - 1755年、メクレンブルク公世子ルートヴィヒと結婚 *フリーデリケ・カロリーネ(1735年 - 1791年) - 1754年、ブランデンブルク=アンスバッハ=バイロイト辺境伯カール・アレクサンダーと結婚 *フリードリヒ・ヨシアス(1737年 - 1815年) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランツ・ヨシアス (ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|